技術を獲得すると色眼鏡がかかる

随分前に読んだmedtoolz氏のエントリーが、自分の中で年々大きくなっていくのを感じる。

偏見を獲得すること - レジデント初期研修用資料

"学習とは、自らの偏見に基づいた、断片的な知識の再配列に他ならない。教科書の配列をそのまま受容することは「暗記」であって、学習とは違う。偏見を持たない人は、裏を返せば学べない。

漠然と読んだ知識は、居場所がないから残らない。あらかじめ知識の居場所を作っておいて、「この知識は、この知識と関連づけて、脳内地図のこの番地に置いておこう」という態度で教科書や論文を読むと、読んだ分だけ知識が残るし、漠然と読むよりもスピードが上がる。

「偏った」人と、「勉強が得意な」人との差異は、ある問題を解決するにあたって、それぞれが獲得してきた偏見が役に立つのかどうかで決定される。偏見に優劣は存在しないし、問題が変わればもちろん、「使える人」の居場所に立つ顔ぶれも変わってくる。"

 厳密に言うと引用箇所の主題となっている「学習」とは違うのだけれども、研究の進め方、問題の捉え方という点が類似しているように感じている。最近、ラボのメンバーと関わって感じることがあったので備忘録としてまとめておきたい。


 新しく入ってきた院生達は、計算・反応・合成と、それぞれ別のバックグラウンドを持っている。彼らの課題に対するアプローチはそれぞれ個性的で、バックグラウンドに大きく依存している。皆、実験も計算もやらなければいけないテーマを行っているんだけど、例えば、計算出身ならば手を動かす前に量子化学計算で解析するし、反応・合成出身ならとりあえず反応をかけている。
 彼らは自分の慣れ親しんだ技術からアプローチする。効率的だし理にかなっていると思う。


 課題へのアプローチの仕方の違いは、物事の捉え方の違いに由来する。
 自分は化学反応を見るとき、「既知の理論で説明可能な現象か否か」「反応素過程の速度はどのくらいか、現実的に測定可能か」「合成における有用性はあるか」などの観点から理解していく。いずれも自分のバックグラウンドと習得した技術に密接に関係している。また、化学物質それ自体に対しては、数学における変数のようなものだと考えていて、それ自体に対してあまり興味関心を持っていない傾向にある。これも経験に拠って作られた価値観である。
 一方で合成を専門にしている研究者は、物質を合成ルート解析の観点から見るだろう。彼らの頭にストックされた反応の知識と物質の構造が照らし合わされ、「原理的に合成が可能か」「困難か、簡易か」「ルートが既知と類似するか、完全に新規か」などを判断基準にして物事を捉えるかもしれない。専門として向き合ってきた対象と、自分の持つ技術の解決可能な範囲が、物事の解像度に影響を与える。
 もちろん、技術や専門以外にも周囲の常識とか社会的要請、現在の環境などの要素が複雑に絡み合って物事は捉えられ、アプローチの仕方が決定されるわけだけど、その中でも研究という個人に属する活動においては技術という切り口は大きいように思っている。


 この分野での経験が少しずつ溜まってきて、使える特殊技術が増えてきた。それと同時に、上記の化学反応の見方のような、独自の「偏見」が強くなってきたように感じる。偏見は、認識した対象を自分の得意なフィールドの中で理解させる。「この技術を持っている自分なら」どう解析するか、「この分野を概観する知識を(とりあえず)持っている自分なら」この結果に価値を見いだせるか、などなど。偏見という色眼鏡をかけることによって自分独自の価値観に照らし合わせて物事を見ることが可能になる。このことで、最初に挙げたエントリー中の「知識の居場所」のように、自分が目にしたデータや読んだ論文は、成形されてから自分の中に居座るようになる。


 色眼鏡を通して見た範囲が広がっていき、様々なものが「知識の居場所」に収まっていくと、それらが自分の中で有機的に結びついていく。この、「偏見を通して見た範囲」が十分に広がり、研究対象を丸ごと自分の価値観から把握できるに至ったとき、面白く・深みを帯びて見えるし、それに対する新しいアプローチを思いつくようになるんだろうなと思っている。現ボスを含むトップクラスの先生と話させていただいたときなど、多岐にわたる事象について独自の観点からの深い見解などが伺えることがあったが、それは専門分野の色眼鏡で世界を見渡した結果かもしれない。いずれにせよ、その境地は遠い。